景雲独言

世の中のこと、思うこと。

「アナザーラウンド」評

 北欧の至宝、マッツ・ミケルセン主演の映画「アナザーラウンド」を鑑賞する。

 マッツ・ミケルセンは「カジノロワイヤル」でしかみたことがないので、これが2本目の鑑賞作品となる。

 アカデミー賞をはじめ、各国の映画賞を次々に勝ち取った作品ということだが、マッツ・ミケルセンの格好良さには同性ながら惚れきってしまった。特に、片手の親指を使って、溢れ出そうな涙を順に右目、左目、と拭う瞬間は、今世紀最高の「涙拭いシーン」と言っても過言ではないだろう。男としての強烈な劣等感を通り過ぎ、惚れてしまうほどクールで知的で不器用で、そしてセクシーなのだ。

 

○本作のテーマ

 様々な映画評を見てもそうであるし、広告の触れ込みも半分そうであるのだが、本作をアルコールの恐ろしさを主に描いた作品と理解する向きが多い。確かにアルコールを契機として物語が進んでいくのであるからそうなるのも分からなくもないが、私はそうは感じなかった。

 本作のテーマは、ずばり「生きていくんだ それでいいんだ」ということではないだろか。

 出会いと別れと、失敗と成功と、幸せと不幸せと、幸運と不運と、団結と節度と慢心と、孤独と反省と後悔と、生と死と再生と。そういったものやことと、いつお相手しなければならないか分からない、それこそが生きていくということである。だからと言って楽観するでも悲観するでもなく、生きていく。それでいい。そんな強い強いメッセージが込められた作品に思えてならなかった。

 その意味で、劇中での「アルコール」は、人間が生きていく中でつい犯してしまう「失敗」の記号として捉えるのが適切ではないかと感じた。

 生きていく上で、我々は数々の「失敗」を犯す。少年時代の非行、激情に任せた反抗、欲情に流された浮気、使命感に駆られたお節介…。それらの失敗には、少なからず快感が伴う。むしろ、快感を得るために、後悔を覚悟で「失敗」に飛び込む。そして後悔する。

 正に、人生における「失敗」を「アルコール」に置き換えていると言えるだろう。思い返してみると、劇中で酒を飲んでいるのは若者とおじさんたちだ。上に挙げた例に重なる年代とも言える。

 確かにアルコールは一歩間違えれば恐ろしいものであるし、そのことも描いているのは事実であるが、それを主として表現した映画であったとはどうしても思えない。

 人生は予測不可能であり、しばしば不幸が突然我々を襲う。退屈がじわじわと自分の人生を蝕んでいくこともある。そんな闇から逃れるために、快楽を求めて我々は失敗を犯す(映画で言えば、アルコールを飲んでしまう)。失敗も犯すが、再起できるのも人間である。撮影開始4日後に、愛する娘を亡くしたトマス・ヴィンターベア監督は、そんな人生を「生きていく」意味について、特に強い思いを込めたのではないだろうか。

 

デンマークと、マッツ・ミケルセン

 冒頭にも述べたように、本作はマッツ・ミケルセンが堪らなく格好良い。確かに「カジノロワイヤル」でも十分にその魅力を発揮してはいたのであるが、今回は桁違いであったように思う(彼の出演作は2作しか見ていないので、こんな表現をするのは軽率かもしれないが)。

 その理由を考えた。やはり、彼の母国デンマークで、母国語を使って演じているということが大きいのではないか。

 デンマークについては予備知識もほとんどなく鑑賞したが、北欧の国特有の薄暗い空気感が何とも魅力的であった。映画の画面作りとしては、悪く言えば「暗くてみにくい」のかもしれないが、今回はそれが良い方向に出ていると思う。

 マーベル作品など、CGで塗り固めたものとは真逆の、自然を生かした画づくりが癒しを与え、人生のあたたかさを伝えてくれたようにも感じた。レコードでクラシック音楽を聴くなど、アナログなものを大切にしているおじさんたちの日常にも羨望を覚えてしまった。

 全体的に温もりを感じる世界観の中での撮影であったからこそ、マッツ・ミケルセンの良さが際立ったのかもしれないと考える。

 

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 いや、それにしても1にマッツ、2にマッツ。マッツ・ミケルセンの卓越性がこれほどまでに輝く作品があるとは夢にも思わなかった。

 恋愛対象は女性の、男性である私が「抱かれてもいい俳優」第一位は、今までジョシュ・ブローリンであったが、どうやらマッツ・ミケルセンが首位の座を奪いそうである。

 

 

 

「最後の決闘裁判」評

 リドリー・スコット監督の最新作、「最後の決闘裁判」を鑑賞する。

 今まで、リドリースコットの作品は「ブレードランナー」と「キングダム・オブ・ヘブン(ディレクターズ・カット版)」しか観たことがない。彼の作品が特別好みであるという意識があるわけでもなかったが、「キングダム・オブ・ヘブン」が長尺のわりに面白く、何となく「バランス感覚のある人」だなあ、という印象を漠然ともっていた。

 期待値はそれほど高くない状態でチケットを買ったが、観終わってみれば大傑作であった。

 この手のテーマでは稀に見る高い完成度であったため、私独自の目線から「最後の決闘裁判」を語る。(※以下ネタバレ含む)

 

○登場人物の立場

 私がもつリドリー・スコットの漠然としたイメージが「バランス感覚のある人」だったということが先に述べた。本作でも、彼のバランス感覚は多方面で光っている。その最たるものが登場人物の描き方だ。彼は、登場人物の誰かに極端に肩入れしない

 あくまでも強姦は許されざる罪であり、昔も今も女性が社会で活躍するには大きな障壁がある、といった#Me Too的な視点は堅持しつつも、人間がもつ「どうしようもなさ」を均等に描く。

 例えば、妻を強姦されたジャン・ド・カルージュ。彼は名誉や誇りや理想、いわゆる家父長制社会における「男らしさ」を第一とする。

 名誉を傷つけられると叫びまくり、また「男の寛大さ」を見せつけるために、妻にライバルとのキスを強い、妻が強姦されたと聞くと「俺の誇りが傷ついた」と怒り、勝手に妻の命を賭けて決闘に挑む。

 私は物語中盤まで、ジャンに「仕事はできないが、プライドとメンツのためだけに生きるヒステリックな奴」という印象を抱いていた。しかし、思い鎧を身に纏い、言葉通り命を賭けて戦う姿を見てると、彼の評価に変化が生じてくる。いくらジャン目線の「己の勇敢さ」が美化されているとはいえ、「プライドとメンツのためだけの…」と偉そうな口を叩く自分は、日々寝て、食って、(それなりに)働いているだけではないか。戦場で死と隣り合わせで戦う男の気持ちが分かるのか?と。ジャンからすれば、分かられてはたまらないだろう。

 そう考えると、名誉や「男らしさ」に縋っているだけに見える彼の肩も持ちたくなってきてしまう。周りの騎士たちが恐れをなして戦場から逃げていく中でも敵に向かって突っ込んでいく勇敢な彼が自分自身を保ち、「子孫を通じて不死性を得たいという欲求」(フランク・ハーバートデューン 砂の惑星 (中)』)に答えるためには、ああなるしかなかったのだ。リドリー・スコットは、ひとりの男をここまで描く。

 ネットなどで本作の批評を見ていると、ジャンをとにかく無能でプライドが高いだけの男だ、批判する声も多いが、私は彼らに与しない。まあ、当のジャンも遠征先では乱暴狼藉を働き、強姦をすることもあったのかもしれないと考えると、彼らも意見が全くの的外れとは言えないだが。

 何にせよ、現代日本の一般的な男性の感覚だけで当時のジャンを判断するのは賢明でないと思う。

 

 ジャン以外の他の2人の描き方も例外ではない。

 ル・グリは基本的には卑劣な重犯罪者であり、その点は揺るがない。しかし、ジャンに命を救われたことを恩に思っていたり、割と後半までジャン肩を持ったりと、(きっと本来は)友情にも(それなりに)厚いインテリなのかな、と思ったりもする。ただ、素行の悪さと犯した罪の重さから、やはりこいつは決して良い奴ではないけれど。

 妻のマルグリットも、悲劇一辺倒といった描き方でないのがよい。いわゆる「#Me Too系映画」の中には、「女性は無垢で、高潔で、純粋で、潔白で、悪いのはいつも男だ」と極端で逆に男性差別的な表現がされるものも少なくないと私はみている。何度も言うが、女性差別や強姦は許さないという柱は堅持しつつ、「悪いのはいつも男だ」と結論づけない点でこの映画の図抜けている。マルグリットには女性特有の強さがあり、やわらかさと逞しさがある。女性が土地や家畜のように、男性社会の「もの」同然で扱われていた時代にあって、夫が留守中の彼女の家庭の切り盛りする姿を観ていると、社会におけるやわらかな女性の視点の大切さを痛感させられる。また、自身の死と隣り合わせの決闘場面では、実際に戦う男とは異なる、子どもとその将来を背負って「戦う」彼女の強さが描かれる。自分と子どもの命が懸かっているにも関わらず、自分の手ではどうにもできない戦いを見守る彼女ほど強い存在は、あの映画ではいないのではないか。そんな風にも思わせられる。

 それから、忘れてはいけないのがマルグリットが女性としての自己表現を主張する場面だ。

 胸元を大きく開けた流行りのドレスを着て、「売女のようだ」とジャンに怒鳴られるシーンは象徴的だ。また、女性の友人たちとル・グリのことを噂するシーンがある。私が苦手なタイプの「#Me Too系映画」であれば、他の女性が「彼、ハンサムね」と言うと「私はそうは思わない。愛するのは夫だけよ」などと高潔さを強調するだろう。本作は違う。「ハンサムね」と投げかけられると「ハンサムね」と返す(ただし好みではないけれど、という条件付きで)。

 映画の中でも出てくるが、どうして男性の容姿に対する好悪を口にしただけで乱暴をされても良いというサインになるのか。どうして露出度の高い衣服を身につけることが、強姦した男性の情状酌量のための要素になるのか。現代、実際に起こっている出来事に、ナイフのように鋭く突き刺ささるテーマである。相手のどんな容姿が好みか?何を着るか?そんなものは、女性の自由だ。いや、個人の自由だ。そこに恣意的な価値やレッテルを貼るのはあまりにも汚れている。

 ここまで中立に人物を描けるのは、流石巨匠である。

 

○3つの真実、1つの現象

 本作の最大の特徴は言うまでもなく、たった一つの現象を、カルージュ、ル・グリ、マルグリットの3人の視点から別々に見せていくことだ。

 川辺での戦いから決闘に至るまでの様子を、(それぞれ別の視点からではあるものの)3回に渡って繰り返し描く。

 まず素晴らしいのは、3回描く中でみせられる「省略と重複の妙」だ。

 リドリー・スコットは、あまりにも華麗に、観客を退屈させない省略を行う。テンポよく話が進み、面倒くさくならない。ぼんやり観ていると気づかないかもしれないが、表現において省略は大きな困難を伴うものだ。助長にならず、欠如を避ける。リドリースコットは、ここでも絶妙なバランス感覚を発揮する。

 反対に、重複する部分もいくつかある。しかし、見事な省略を見せられているために、重複する部分は3人のボタンの掛け違いが起こっている重要な場面なのだと気付かされる。助長に感じるどころか、注意して登場人物の台詞や表情に注目するようになるのである。

 例えば、3人全ての視点から描かれる「友人の出産パーティー」でのキスシーン。

 

①ジャンの目線

 大勢の人々が集まるパーティーは、彼にとって妻の美しさを周囲に見せつける場であり、かつライバルへの恨みを綺麗さっぱり水に流して仲直りができる「寛大な男」を誇示する絶好の場である。彼にはほとんどそれしか頭にない。だから、妻に強要する仇敵とのキスシーンは自分の寛大さを主張するためだけのカットで構成され、その後のパーティーも比較的あっさり描かれる。

 

②ル・グリの目線

 マルグリットとのキスは彼に濃厚な印象を残す。このキスで、彼はマルグリットに本気で惚れるのだ。つまり、ジャンからすれば仇敵のル・グリと仲直りする場面であるのに、ル・グリからするとジャンがマルグリットをめぐる仇敵になる場面となる。だから、ル・グリ目線では、キスが終わった瞬間、ジャンが一瞬不安そうな顔で妻を見つめる描写が入っている。「おい、まさかお前、ル・グリに惚れてないよな?」と。ジャンはそんなこと少しも思っていないのに。

 

③マルグリットの目線

 夫のための道具のように扱われるキスシーンでは、明らかに彼女の困惑が感じられる。なぜこの人とキスなんてしなければいけないのか。その後のダンスシーンでも、ル・グリのことをよく思っている素振りは見せない。不快感漂うシークエンスとなっている。

 

 このように、重複させるのには意味がある。省略するのにも意味がある。監督の構成にキャストの絶妙な演技が花を添え、この映画は成り立っていることが分かるのだ。

 

 それからもう一つ、「省略と重複」にも関係するが、監督は3人の目線から描くことで、人の記憶と認識の不確かさ、恣意性を見事に表現している。

 当然のことだが、人は一人ひとり感じ方も考え方も違う。私はよく虫眼鏡を例に挙げるが、「我々は虫眼鏡を手にして生きてる」。同じ出来事、現象の中にいても、クローズアップするものが異なる。同じ映画を観ても、列車好きの人は列車にばかり目が行くだろうし、色彩感覚が優れた人は色彩要素に気を取られるだろう。

 「すべらない話」という番組があったが、あれはまさに語り手が上手く虫眼鏡を当てて、日常を面白い話として再構成している。だから決して作り話とは言えない。

 その意味で、それぞれの立場から描く際に、台詞や行動をわずかに変えてあるのはある意味正しい。先程のパーティーシーンの、ル・グリの気持ちなどは、同じ経験をしたことがある人は多いのではないだろうか。ある人に恋をする。その瞬間から、「その人」に関わりをもつ全ての人が敵に見えてくる。そして、「その人」の些細な動きや視線が自分に送られたメッセージだと誤解してしまう。恥ずかしながら、私自身もそんな経験がないではないから、ル・グリ視点のパーティーシーンでは誤解しかけた。

 家に押しかけて強姦するシーンでも、被害者と加害者との証言は食い違いがある。どうやらマルグリットの証言の方が真実に近いようであるが、ル・グリから見るとマルグリットが半分誘惑しているように見えなくもない

 性欲でなくても、我々が様々な欲望に取り憑かれる時、欲に流される自分を正当化するために恣意的な言い訳を寄せ集める感覚はすごく分かる。「だからこの強姦は仕方なかった」と言いたいのではない。私たちは(とりわけ欲望に囚われた私たちは)、想像を遥かに超えて「今・ここ・自分」のことしか考えられないのだ、という戒めを受けた気持ちになった。

 あんなシーンは残酷、何度も見せなくていい、などの意見もある。そういった被害に遭われた方の気持ちは量り知れないので、このシーンの有無について軽々に論じることができるものではない。しかし、欲望に弱い我々自身に向けた、重い戒めの意味として読み解くには大変意義のあるものだと思う。

 

○<アルノルフィニ夫妻の肖像>と本作

 今年のベスト3に入るほど私には響いた映画だったので、語りだすと止まらない。キリがないので、最後に映画の舞台となった中世フランスの絵づくりについて一言添えておきたい。

 本作は時期が冬ということもあって、トーンの抑えられた寒々しく、靄のかかったような色づかいがなされている。ピーテル・ブリューゲルファン・エイクの絵画を連想された方も多いのではないだろうか。実際に、これらの画家たちの作品も参考にして絵作りが行われたという。

 私自身は、見ている最中ずっとファン・エイクの<アルノルフィニ夫妻の肖像>が頭から離れなかった。雰囲気といい、色使いといい、だ。特に、先ほども申し上げたマルグリットの靴が脱げる(ル・グリ的には「脱いだ」)場面。この絵画の、脱ぎ捨てられたサンダルを思い出さずにはいられなかった。作家の中野京子は、「『脱ぎ捨てられたサンダル』、これは『聖なる場所では履物を脱げ』という聖書の言葉」(中野京子『怖い絵2』)を意味すると述べている。このことが念頭にあったため、「ん?靴を脱いだぞ?ということは?」と下衆の勘繰りをしてしまった。実際に、本作とこの絵画との間に関係があるのかは分からないが、西洋絵画のように象徴的なものが上手く散りばめられた作品だと思った。

 

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 以上が、私がさしあったて思うことだ。

 何にせよ、懐の深い作品である。

 物語では、3人いれば3通りの見方と捉え方がある、と言うことが表現されていたが、この映画も同様、観る人の数だけ見方と捉え方、評価の仕方があるだろう。

 かなり冗長かつ偏見の多い映画評になってしまったかもしれないが、これが私、景雲目線の「最後の決闘裁判」だということで。